ヨーロッパ生活8年目に突入するまで、あと53日。
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これだけ長い時間、日本国外で生活をしていても、未だに「自分はまだまだ日本人だな」と気づく時がある。同時に、『真の異文化理解』も垣間見えてくるから、私はこれをプラスに捉えているが…。
【最近のエピソード】
目の前で男性同士の口論が始まった。登場人物は以下の、3名。
・友人A (スペイン人)
・友人Aの彼女 (スペイン人ではない)
・友人Aのお客さん (ドイツ人)
お客さんが私の友人Aに、滞納していたお金 (施設利用料数万円) を支払わなかった。誰が聞いても「なんで?!」となるであろうシチュエーション。…非常識という言葉では表しきれないほど、払わない理由がおかしかった。
友人Aは、彼女と私の目の前で喧嘩をしたくなく、極力、感情を抑え、理性を保とうとしていた。しかし、あまりにも理不尽な相手の態度に…冷静さを持っていかれそうになっていた。
10分、15分…
これはAが折れない限り、ラチがあかない。でも、本来であればお客さんが払うべき大きな金額 (5万円超) を彼が負担するのもおかしな話…。
と私は思っていた。
その時、彼女が「もうそこまで!(¡Ya está!)」と口を開いた。重い空気の中、「これだけの…」と次のフレーズを言いかけた時、Aがいつもの温厚な口調で『Cállate (カジャテ)』と彼女に言い放った。
『Cállate (カジャテ)』=『黙れ』
もしかすると『黙れ』ではなく、『黙って』なのかもしれない。でも、私には『黙れ』に聞こえた。スペインに来て5年目の非スペイン語ネイティブの彼女には、どう聞こえたのだろう。
【日本語の細かさ】
日本語ほど、自分の細かな気持ちや、相手への思いやりを言葉で伝えられる言語はない。…心からこう思う私は、まだまだ日本人。ずっと日本人である。
黙れ。
黙れや。
黙って。
黙ってよ。
黙ってってば。
黙ってよね。
黙ってて。
黙っておいて。
黙っててよ。
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今回は「黙って」を例に上げたが、こういったバリエーションを日本語以外の言葉に乗せられないと気づいた時、寂しくなる。声の調子や文脈によって多少のニュアンスは区別をつけられるものの、やわらかい印象や気配りは…やっぱり動詞の命令形に含ませきれない。改めて日本語の語尾 (終助詞) は、素晴らしい。
私はまだスペインでもイタリアでも笑いながら冗談を言い合う場面以外で『黙れ』と言われたことはないが…
🇪🇸 Cállate (カジャテ)
🇮🇹 Stai zitto (スタイズィット)
怒りモードでこの一言を面と向かって言われた直後に、
🇪🇸 amor, reina, estrella, mi vida
🇮🇹 amore, tesoro, la mia vita, cipollina
などと呼ばれても何も嬉しくないし、心は「❤️」に戻らない。
【思いやりと言語】
まだ異文化に慣れていない頃に、この『黙れ』を目の当たりにしていたら、私は「スペイン語やイタリア語は、思いやりに欠けている言語」と判断してしまうと思う。
しかし、今はこれが『言語の違い』だと知っている。
相手の気持ちを察して言葉を選び、行間を読みながら、共感や協調性を大切にする言語。
喜怒哀楽の感情を隠すことなくダイレクトに相手に伝え、愛の言葉も毎時間欠かさない言語。
ただ文法が違うだけではない。
本心を伝えるのが「思いやり」な言語があれば、相手の感じ方を第一に考えるのが「思いやり」な言語もある。
日本語以外で、会話やチャットをしながら「これ〇〇語でどう表現するだろう?」と思う回数が年々減っている。
スペイン人にはスペイン人向けの言葉で、
イタリア人にはイタリア人向けの言葉で、
日本人には、日本人向けの言葉で、
無意識的に伝えられるようになってきたのだと思う。ようやく。
【言語によって変わる口癖】
スペインでスペイン語を話している時、日本語では言わない次のフレーズを連呼してはいないだろうか?
・Vale. (分かった。)
・No pasa nada. (どうってことない。)
・Muy bien. (すごく良い。)
・Claro. (もちろん。)
イタリア語を話している時は、
・Va bene. (良いよ。)
・Boh. (ボッ)
・Tutto bene. (全部良い感じ。)
・Certo. (もちろん。)
反対に、現地生活が長くなるにつれ、日本語の「すみません」の使い方を外国語でしなくなっているだろう。口癖のように、悪くもないのに、謝る場面ではないのに、つい言ってしまう「すみません」と「ごめん」。
話せる言語が増えれば増えるほど、言語の切り替え以上に、文化の切り替えが大変になってくる。しかし、これに対応していくには慣れるしかない。慣れるものだから心配はいらない。
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心と言葉と文化の結びつき。
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