BARCELONANDO :)

1995年香川生まれ岡山育ち。現在ヨーロッパ生活10年目。スペインとイタリアの大学生活・旅行・言語学 (5ヶ国語)・哲学・バルセロナおすすめ情報など、幅広いジャンルの記事を執筆中。

【言葉選びのセンス①】古代ギリシア時代〜平安時代〜現代

少し前まで「言語の限界が自分の世界の限界だ」という言葉の真意を探るのが好きだった。だから、

・言語と思考の関係性
・言語構造と意味論、
・言語の限界と論理的言語分析

を学ぶのがすごく楽しかった。

でも、ここ最近興味が変わってきた。

言語学や翻訳にも手を出したからか、
今までの勉強の流れでそうなったのか、

言葉選びのセンス」が気になり始めた。

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【古代ギリシア時代】紀元前5-4世紀
はるか昔、有名な哲学者プラトンがいた頃から「*話力 (言語能力)」はとても大切な要素だった。(*この記事で使う「言語能力」は「外国語」という意味ではなく、母語を操る能力のこと。)

ソフィスト (詭弁家) たちは『レトリック』と呼ばれる巧みな表現をする技法のエキスパートで、知識人や政治国家に携わる人々の話力を鍛えていた。当時、社会的成功を得るためには「人々を納得させる力」が必要だったからだ。

後にソフィストはプラトンやソクラテスたちから「あいつらの弁論術は嘘っぱちだ。真実ではないことをあたかも本当であるかのようにしゃべっている。」と批判され、徐々に力を失っていくが、彼らはなくてはならない存在であった。

修辞学: 美しく巧みな言葉で飾って話者を感動、納得させる表現を学ぶ学問 

師匠であるプラトンの批判を継いだアリストテレスの著書『弁論術』には現代社会でも十分通じる大切な教養が詰まっている。

【平安時代】8世紀末〜12世紀
日本では和歌が流行った。5.7.5.7.7の31音という限られた中にも修辞法は多く使われた。私たちが中学・高校で習った「枕詞」や「掛詞」や「縁語」などがその例だ。和歌と聞くと「文学」だったり「恋愛を語る手段」というイメージが強いが、実は、政治的な役割も持っていた。中国の漢詩も同じく、国家と民衆、自国と他国の関係に詩は不可欠な存在だった。

 

【言葉の持つ力の変移】
古代ギリシア時代から現代までの「言葉の持つ力」の重要性に着目してみると、話し言葉から書き言葉になってきたように思える。

大衆の前で自分の意見を述べ、聞き手を納得させる (瞬間的)
例: 大衆演説

手紙や文学として読み手に感動を与え、指示を得る (恒久的)
例: 詩、和歌、物語、小説

日本に「演説」という文化が来たのは世界的に見てもとても遅い。なんと明治時代、福沢諭吉がスピーチという言葉に演説という日本語の訳語をつけたのが始まりだ。

それもあり、日本人は多くの西洋人が持つ「瞬間的に相手を納得させる話法」よりも、恒久的に美しい自然を描写し、恋心を詠むような「美や趣を善とするような技法」に惹かれてきたのだろう。

日本語はいちいち主語を言わなくてもいい。
相手は気持ちをくみとってわかってくれる。
全てを言う必要はない。

その理由が歴史を見ていたら何となく分かる気がする。

【現代の日本】2019年
今年で日本を離れて6年目になるが、これまで常に「日本の生きた言葉」には置いて行かれないようにアンテナを張ってきた。そんな中で最近は特に、言葉選びのセンスが人気を左右するポイントとなってきている印象を受ける。

大人気アーティスト、注目されるスポーツ選手、売れっ子の小説家、人気急上昇中のユーチューバー、、、彼らに共通するのは言葉選びのセンスの良さで人の心を魅了できること。

そのセンスを大きく分析すると3つ;

① ユーモアがある: 面白さ
→ 芸能人や芸人

② 国語の深さ: 美しさ
→ 作詞をしているアーティストや小説家

③ 新しい表現: 斬新さ
→ ユーチューバー

この力に秀でている人とそうでない人と何が違うのだろう。

・感受性
・喜怒哀楽の経験の多さ
・生まれつきの才能
・頭の良さ、知識の多さ

きっとこの「徳」はプラトンの時代のあの「徳」と同じで、時代は変われど、今も永久的に言語の持つ奥深さと表現の美しさは続いている。 

 

【外国語の魅力と美の概念】
私は今、自分が話せる外国語の中で1番だんとつで好きなのは、スペイン語である。しかし、この魅力は大好きな日本語に対して感じるものとは異なる。

では、どんな魅力がスペイン語にあるか?

それを考えた時に思いつくのは、

・音
・スピードとテンポ
・言葉のシンプルさ
・論理的な言語なところ
・日本人以外とコミュニケーションがとれること

…と、全てが「上部な魅力」だった。

あと20年、30年、スペイン語を母語とする人たちといれば「日本語と同じ深い美しさ」を感じれるようになるのか?

…私はならないと思う。

そう思う理由はただ1つ、

スペイン人やイタリア人が持つ「美」は私たちの思う「美」と違うから。

これまで、スペインでは15世紀から現代にいたるまでの様々な文学、演劇、詩を現地の仲間と学んだ。イタリアでも今、それのイタリアバージョンを学んでいる。その中でそう思うようになった。

ここ3週間ほど『狂えるオルランド』という16世紀初頭に書かれた全46歌、3万8736行に及ぶイタリアの大長叙事詩を読んでいる。

読みながらイタリア人たちは「うわ〜すげえ、美しい!」と横で感動する。

一応、スペイン語の訳も横に置き、
読み進めるものの一向に『美要素』と出会えない。

強いて言えば ABABABCC (オッターヴァ・リマ: 八行詩体) の押韻に「お〜」となる程度。「さっき、ここを美しいって言ったよね?音?描写?どこが具体的に美しい?」と聞くうちにイタリア人が古典詩を読んだ時に感じる美と、私が和歌を読んだ時に感じる美は違うとハッキリわかった。

この差を表すのは難しいが例えてみようものなら...

スペイン人やイタリア人が感動しそうな美: 雲ひとつない青い空に向かって真っ赤なバラが1本だけ咲いている。その色と威風堂々とした姿はまさにあの人と思う気持ちのようだ。
→ 赤と青のコントラスト、愛を堂々と咲くバラで例えている点が美しい

日本人が感動しそうな美: ひらひらと舞う粉雪は一輪の梅の花の上でふわっと溶けた。まるで積もることのない想いのように。
→ 情景が連想される描写 (詩の中の音)、恋のはかなさが美しい

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要するに、

視覚的でハッキリした「美」か
風情的であいまいな「美」か。

この美の概念が文化に浸透し、国ごとに様々なイロが出る。

建築・食・国民性…。

サグラダファミリア、コロッセオ、凱旋門

お寺の庭のコケ、夜の静けさに灯る提灯、鹿威しの水の音

【日本語の美しさとは】
日本語の複雑な構造に魅力を感じる人もいれば、敬語や謙虚な表現に魅力を感じる人もいる。私は大和言葉や、一人称と二人称のバリエーション、形容詞と副詞の豊富さ、『心』という言葉が好きだ。これに関しては別記事を。

【まとめ】
長くなったけど要するに、
・言葉を巧みに操る能力は今も昔も大切
・西洋の美を心から美しいと思える日は来るのか
・日本語の奥深さに美を感じる
・言葉選びのセンスがある人は素敵

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