コードスイッチングとは、方言や外国語をごちゃ混ぜにして会話をすること。もしくは一文ごとに言語を変えて話すこと。よく「多言語話者やバイリンガルはコードスイッチングをする」と言われている。
言語学と社会言語学の世界では、
「なぜ、この現象が起こるのか」
「どんな研究結果が出ているのか」
「動機・目的・社会的機能は?」
「発生する文の統語論の構造解明」
「ただ混ぜているのではなくルールがある」
と、あれこれ議論がなされている。
…専門的な言葉や統計の分析は小難しいので、今日は実体験から言えることを。
【要因や動機は?】
私からしてみれば、ある言語を話しているのに、別の言語が混ざるのは「横着」でしかなく、この現象を不思議だと感じたことは一度もない。
横着と言うより「脳が楽をしている」
実際、コードスイッチングは、多言語話者からすればめちゃくちゃ楽であり、便利である。だからついつい多用したくなってしまう。…この自覚があるということは多言語話者同士の会話は、言語制御をしなければ自然と複数の言語が入り混じるものなのだろうか?
【意識か無意識か】
普段話す言語: スペイン語とイタリア語と英語
他に話せる言語: 日本語とカタルーニャ語
私はスペイン語&英語が分かるイタリア人とイタリア語で話す時、スペイン語が分かるアメリカ人と英語で話す時、コードスイッチングをしてしまいやすい。
でも、
スペイン人と英語で話す時、カタルーニャ語が分かるフランス人とスペイン語で話す時、英語が分かるアフリカ人とイタリア語で話す時、バイリンガルの日本人と日本語で話す時、この現象は起こらない。
➡︎ 意識的にも操作が可能 = 完全に無意識的なものではない。
【現象が起こらない時】
非スペイン語ネイティブとスペイン語で話をしている時にコードスイッチングが起こったことはない。これはスペイン語が「豊かな言語」であるからだと考える。語彙も時制も動詞も表現も豊富な言語だから、他の言語でカバーする必要がない。
イタリア語がわかるイギリス人と英語で話す時、たまにイタリア語の単語をお互い使うことがある。しかし、なんでもかんでもごちゃ混ぜになるのではない。英語には存在しない表現・概念があった時のみ。
【コードスイッチングが楽な理由】
・言語Aにない表現を言語Bで伝えれる
・頭に浮かんだ言葉をそのまま口にできる
・お互いが得意な言語で会話ができる
・脳をあまり使わなくても良い
先ほども述べたように、これは意識下に起こる現象であるため「コードスイッチングを使わないでおこう!」と意識さえすれば、言語切り替えを完全に防ぐことは出来る。第三外国語、第四外国語と話せる言語の数が増えるにしたがって、この「意識」(言語と言語の間の仕切りのようなもの) は強化されるから、英語と日本語のバイリンガルより、マルチリンガルの方が言葉は混ざりにくいと思う。
【日常生活のコードスイッチング例】
日本語の曲を聴きながら空港の搭乗ゲート前に並んでいる時、前の人から英語で質問されたら咄嗟に英語で答えられ、後ろの人がスペイン語で困っている会話をしていたらスペイン語で教えてあげられる。これはまさしく言語変換。脳が意識しているというよりは、聞こえた言語に脳と口が対応してしまう感じ。
【日本語はどうか】
日本語にはたくさんの方言と敬語 (尊敬語・謙譲語・丁寧語) が存在する。ボキャブラリー以外に、社会/地域的な特徴を多く持つ言語は数少ない。
日本人は、方言・標準語・敬語を時と場合によって使い分けている。私は日本に帰ると、讃岐弁と岡山弁と標準語、そして敬語を使う。
『フォーマルな場では標準語』という意識のおかげで、仕事で方言が出ることはない。家族と話す時は方言A。でも、友達と話す時は方言B。というように「方言の使い分け」が出来ている人は数え切れないほどいる。
話者A 話者B
(方言A) (方言B)
〜共通言語 L〜
「いつもはお互い標準語で話しているのに、ついつい盛り上がって方言Aを使ってしまった」「先輩にタメ口を使ってしまった」= 言語抑制が出来なかった!という経験を誰しも一度はしたことがあるだろう。
この気のゆるみ (通じる安心感) と、多言語話者同士が会話でコードスイッチングをすることは似ている。
【まとめ】
・脳で「変換作業」をするのが面倒な時、聞き手も多言語話者な時、安心感から気持ちがゆるんだ時にコードスイッチングは発生する。
・多くの言語を話せる人ほど、言語が入り混じることなく、きちんと使い分けが出来る。
・言語とアイデンティティは密接な関係を持っているため、心理状態によって口から発せられる言語の種類が変わることがある。
私にとってコードスイッチングとは、会話中、両手の指でダブルクォーテーションマークをするようなもの。
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