BARCELONANDO :)

1995年生まれ。ヨーロッパ生活5年目。バルセロナ・イタリア・ヨーロッパ・言語学・哲学に関する記事。

【日本が注目されるワケ】哲学編 (バルセロナ大学)

日本哲学が西洋に存在を認められ始めたのはニシダから。』

バルセロナ大学2年生になって間もないある日の授業で1人の教授がこう言った。そのクラスは「西洋と欧米の哲学諸問題」という名前だったのに、彼女はよく「日本哲学」というワードを比較の対象として挙げた。

(日本人のニシダ…?哲学者?)

…ここから私の日本哲学の独学が始まった。

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〜前置き〜
西田幾太郎 (ニシダキタロウ): 日本を代表する哲学者。1870年5月19日石川県生まれ。西洋哲学の難問を紐解いたとも言われる偉人で、独自の西田哲学を築き上げた。著書: 善の研究

【西田哲学とは】
東洋の絶対無を理論化して西洋の思想と融合したもの。絶対無は彼による造語である。西田の言う「無」は「有」に対する「無」でなく『存在の根拠となる無』。

【比較対象とされる西洋哲学者例】
パルメニデス: 紀元前500年前に生まれた古代ギリシア哲学者。有と無、この哲学のテーマを初めて議論した人。

ハイデガー: 1889-1976年。なぜ無ではなく、何かが存在してるのか、存在とは何かを論じた20世紀最大の哲学者の1人。『存在と無』『存在と時間』について追求した。

サルトル: ハイデガーにならって『存在・意識・無・対自と他者』について論じた。

〜本題〜
「無から有は生まれないのだろうか?」

・西洋思想:「有」から「無」が生まれる
・日本思想:「無」から「有」と考える

これが以下の言語的違いも生み出している ↓

・西洋の言語は主語をハッキリ言う
・日本語は主語を省略する傾向が強い言語

宗教も関わっているのではないか ↓

・西洋: 完全な神が1存在する (一神教)
・日本: 自然は尊い神のような存在 (汎神論)
     神は不完全な (パーフェクト) でない

西田幾多郎は、西洋の哲学を学びながら禅の哲学を学んだ。「存在」について語る上で、禅は必要不可欠だとし、そこから新しい思想が見出せないか考えた…。のちに彼は著書の中で「私」=「絶対無の場所」だと説いた。

今まで「有」が全ての始まりとしか思ったことがなかった西洋に、「無」の概念をもたらした日本の近代の偉人。

 

【海外で禅が人気なワケ】
日本(人) と言うとたまに「禅」を連想されることもある。なぜスペインで、イタリアで、海外で「ZEN (禅)」 がびっくりするほどブームになっているのか。

やはり、禅の大きな魅力の1つは「(自然を感じながら) 無になること」であって、西洋の人たちからすれば真新しさを感じるようだ。それもそのはず、日本人と西洋人の生活・教育を比べると「1日の中で無になる時間」にとてもがあるように思える。

私が小学生の頃の生活を思い返して見ると、何も考えなくてもいい時間・自分と向き合える時間が存在した。
・草抜き、ゴミ拾い、掃除
・帰りの会での黙想の時間
(今日1日の良かった事と悪かった事を振り返る)
・習い事のバス・電車の中
・お風呂

西洋の小学校には掃除の時間が存在しない。そして草抜き・ゴミ拾いも業者がするものであって、生徒にさせることはない。黙想の時間もなければ、お風呂で湯船に浸かってゆっくりする時間もない。(西洋は西洋でも北の寒い国では湯船に浸かる国・地域もある。)

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休日、イタリア人の友達と森林へハイキングをしに行った時、頂上で景色を見ながら休憩をした。その時に「何考えてるの?」と聞かれた。ボーッとしてたから『何も。』と言ったら「何も考えてないってこと?無なの?」と驚かれ『そうだけど?無にならないの?』という会話を何度かしたことがある。すると彼らは「無って無理じゃない?」とか「さすが日本人だな〜禅の心だね!」とか「無になる方法を教えてよ」と言ってくる。

本当に「無になる方法」がわからないのか、異なる概念を持っているのかはわからない。でも確実にわかることは、私たちより「ボーッとする時間」が少ないということ。

【主語から生まれるワタシ】
西田幾多郎は代表作『善の研究』の中でこう言った「主語と共に主観 (=主体) が生まれる」。幼児は「ぶーぶー」や「まんま」と言う言葉 (オノマトペ) を経て、「ボク」「ワタシ」「〜ちゃん」と自分を呼び始める。この主語の現れは、ただ単に自己認識や主観が生まれるだけではない。それと同時に「客観」が生まれる。その時に、主観の大切さについて明言した。その考えはデカルトと似ていた。「主観は客観を包む」(自分の周りの存在は実在するか疑いだしたら限りがない、大事なのは主観の方。)

本来、この説は「実在・主観・客観・意識」について語るものであるが、私はここで日本語の主語の省略一人称の多さを関連付けたら面白いと考えた。

① 日本語ほど主語を省略して伝わる言語はない
→ 外国人に日本語を教えていると、これがいかに日本語の難しいところかわかる。読解問題を解いていると生徒たちから必ず「この文の主語は?」と聞かれる。それもそのはず、他の言語 (特にヨーロッパ言語や英語) では主語を欠くことができない。ロマンス諸語では、会話の途中で、相手の話を一瞬聞いてなくても主語を聞いたら「ああ自分のこと言ってるのね」と大体の話の見当がつく。しかし、日本語はよく聞いてないと「…誰のことだっけ?」となりかねない。

外国人が話す日本語に違和感を感じる要因はこれ。

「ワタシは」「アナタは」「カレは」と日本語ネイティブはいちいち言わない。そこにスポットを当てる必要はないし、当てたらそこが強調されてしまう。きっと「主語>副詞」という差はなく、日本語で主語は名詞や形容詞と同じレベル。

海外で「日本人は気が利く」と言われがちだが、相手の心を読む・空気を読めるのには、こんな背景があるのかもしれない。

② 実は私たちの言語は客観>主観である
→ 英語では I (アイ)、スペイン語では YO (ヨ) という風に一人称は1つしかない。男性も女性も子供も同じ人称を用いる。日本語は15種類以上ある。

男性: ボク・俺・わい・おら
女性: ワタシ・アタシ・うち

相手に与える印象も違えば、その人称を用いることによって自分の性格までも変わってしまいそうに思う。これも日本語の興味深い特徴の1つであるが、人類社会学的な視点から見ると、

父親になると自分を: パパ・父さん・親父
母親になると自分を: ママ・母さん・お袋

社会的境遇が自分の呼び名を変える。この変化を見ていると「客観>主観」な気がする。 

「無から有は生まれるのか?」
「有からしか無は生まれないのか?」

何時間でも楽しく考えれるテーマ。

次回は言語学編 (カラブリア大学)。

冒頭に述べたモンセラット教授 (Montserrat Crespin) が「東洋哲学研究」を極めたすごい人だったということ、彼女の功績と研究ぶりはスペインでもだいぶ認められていて、日本や中国の哲学の講義が行われるときには決まって招待されるレベルだということは後から知った。

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バルセロナにいる人で、哲学が好きな人はぜひ BARCELONA PENSA という大規模な哲学イベントへ。上の写真はバルセロナペンサ運営の証書をもらったときのもの。

公式ツイッター: @BarcelonaPensa
公式HP: https://www.barcelonapensa.cat/

今日のメモ 21-11-2018
【日本哲学×西洋哲学×言語学】