BARCELONANDO :)

1995年生まれ。ヨーロッパ生活5年目。バルセロナ・イタリア・ヨーロッパ・言語学・哲学に関する記事。

【スペインとイタリアの大学で勉強しようと思ったワケ】言語哲学

なぜスペインのバルセロナ大学で哲学を選考していながら今はイタリアのカラブリア大学で言語学・翻訳を学んでいるか。どの点でマルチリンガルは優れているか、得か、どんな感じか。

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まず、イタリアで言語学を選考してる理由は自分の「言語哲学」を更に深いものにするため。バルセロナ大学では哲学部で2年丸々どっぷりと哲学ライフを送った。哲学と言っても種類はものすごくある。言語哲学、古代哲学、倫理哲学、宗教哲学、論理哲学、人類哲学、政治哲学、法哲学、現代哲学…など列挙すればキリがないほど広範囲にわたる。なかなか哲学に興味がある人じゃないと「あー (言語) 哲学って面白いかも」ってなる機会がないんだよね。ちょっとその深さをわかってもらうために、2フレーズをここに挙げる。それは ①「りんごをイメージしてみて」「青リンゴは好き?」f:id:kaedetaniyoshi:20180810184401j:plainまず最初の「りんごをイメージしてみて」
そう言われるとどんなりんごをイメージするだろうか。ある人は赤いりんご1つが脳裏に浮かび、ある人はもう切って食べる前のりんごをイメージして、またある人は木になってるりんごを思い浮かべるだろう。小さい子に聞いたら保育園で描いてみた自分のイラストをイメージするかもしれない。なぜ異なるイメージの中、私たちは誰かと会話ができ理解しあえているのだろう?f:id:kaedetaniyoshi:20180810184426j:plain次の質問、「青リンゴは好き?」
何気ない質問。だが言語哲学的視点から分析すれば3つの注目すべきポイントがある。それは青 (色)リンゴ (もの)好き (感情) 。これはちょっと難しいかな。興味ある人からしたらたまらなく楽しんだけど (笑) まず青という色の概念。これは一言で言えば色の共通概念は存在するかどうか。私から見えてる「」って友達のAくんとっての「」かもしれないけど、でも私たちは共通の呼び名 で呼んでるから話が通じてるだけかもしれないよね。ってこと。って色の概念についてAさんとBさんのが話してるとしよう。そして『黄色と青の間の色だよね!』ってことで2人とも納得したとする。すると言語哲学者は次のようにつっこむ。
『なぜ緑は黄色と青の間の色だと思う?』
『透明な緑色を想像するのは不可能かな?』
『目の見えない人に、その色をどうやって説明しようか?』
『色に論理的なルールってあるのかな?それとも心理的な存在なのかな?』
リンゴ (もの) の概念がいかに抽象的かというのは上に述べた。それに加えて、りんごという単語はりんごという意味をRINGOという音で表す。が、音と意味は直接的な関係はないのに私たちはそれを使ってコトバを作っている。という見解もある。だから人々は意味を表現するために音を覚えているということ… (まあ、これは言語哲学っていうより言語学の領域)。閑話休題、次に好きという感情について。感情全てにおいて言えるが、その感情は本当に他の人とわかちえているものだろうか。「好き」という言葉は5歳の子でも平気に使うし、20歳の人でも50歳の人でもこんな深いことを考えることなく使う。でも分析してみれば、知覚と心理的概念 → 言語 (「好き」という共通のワード) である。

「青リンゴは好き?」
この質問はとても単純で、今まで友達と会話が普通に成り立ってきたかのように思えるが、実は 「XリンゴはY?」って聞いているのとなんら変わりない。Xの色の概念も人によって違うだろうし、確かめようがない事実。Yの好きという感情だって、あなたの使う「好き」はいつ誰から習ったのか、どこに共通理解のルールブックがあるだろうか。という…。だから私の1番大好きな言語哲学者はこう言った、「言語ごとに何千、いや何万という言語ゲームが存在する」(Wittgenstein.L) 

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ある言語から別の言語に訳された哲学作品を読むのもいい。でもこれだけ深い言語哲学をその枠内 (ある翻訳者さんの理解している範囲での表現、言語) にとどめて満足するのはどうも気がすまなかったし、私が自分で密かに進めている自分の言語哲学をもっと掘り下げるためにはもう一言語、習得する必要があった。言語は自分の世界の限界だ。自分で言葉で表せるところまでが自分の世界。やっぱり、外に出ず自国で限られた少数の先生から習ったりテキストやCDから習う言語は私の中で「生きた言語」じゃない。そこから文化、歴史、その言語が話されてる国の国民性を見出すのは難しいと思うから。しかも今、この瞬間も文法が大きく変わってるとまではいかないが言語は変化してる。生きてるからね。だからその地で学ぶのが1番いい。言語と国 (その言語を母語とする話者、文化、歴史、習慣) の間には密接な関係がある。イタリア語ならイタリア。日本語が学びたいなら日本。英語なら英語圏。でももちろん、個人の目的によるけどね。旅行で使えるレベルでいいのか友達作りレベルなのか、その言語で生きていくレベルか…。で、イタリア語は4,5年前から話せるようになりたかったし、イタリア人の友達の雰囲気が大好きだったから北イタリアに移住しようかな〜とか頭のどこかにいつもあった。

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マルチリンガルになっていいことは、喋る相手の母語で会話できる+自分が気に入った著者の作品をオリジナルで読めるところ。オリジナルじゃなくても翻訳されたものを何言語で何パターンも読める。あと空港やいろんな言語が飛び交う場所で「雑音」がなくなるところ。全部の会話が「会話」として耳に入ってくる。みんなが日本語で話してるのかってくらいスッと理解できるようになる。例えに、先月日本に帰るためにアムステルダムで乗り換えをした時の話をすると…。飛行機の搭乗口に並んでて自分の前の中年夫婦が「ちょっと、スクリーンみてよ、僕たちの便名と違うぞ」と英語で困ってる会話をし始めた。私の後ろのおばあちゃんは孫に「なんで2列あるんだろうねぇ、私たちファーストクラスのチケットだけどここにまだ並んでないとだめなのかねぇ足が痛いよ」とイタリア語で困ってた。どちらも不慣れで不安そうだったからほっとけず教えてあげた。無意識的にそれぞれの言語で。1,2分の間に前向いて英語、後ろ向いてイタリア語で誰か役に立てたの不思議だなと後々思って母に話したらスゴイ!って言われた。けど、語力より5年目になると言語に自然と感情や情が入るようになったーって喜びの方が大きい。

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日本語にはたくさんの「他の言語には翻訳不可能な表現」「他の言語では1語で表せない言葉」があると言われる。これはスペイン語にもイタリア語にもカタルーニャ語にも英語にもある。それはこの5年でハッキリとわかった。それらは実際に、その言語が話されている土地に行って、自分の五感をフルに使わないと理解するのが難しい。スペイン語の動詞にtutear (トゥテアール) というのがある。日本語にしたら『 usted (あなた / 敬語じゃなくて (君 / タメ語・同レベルで話すこと』かな。…ちょっと違う。相手に敬意を持ってないわけでも、同レベルもしくは見下してるわけでもない。親しみを抱いてる距離の近さを感じる。

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スペイン語の pues という単語をイタリア人はすぐに理解できないし。スペイン語には人や動物を描写する可愛いとか綺麗とか美しいとか愛おしいとか様々な形容詞があるのにイタリア語には2単語しかない。bell@とcarin@。逆にイタリア語の pure は本当にいろんな場面で使う。あ、あと継続を表すスペイン語の
llevo estudiando
continuo estudiando
he estado estudiando
estoy estudiando
sigo estudiando
とかは日本語では全部翻訳できる=日本人からしたら理解に全く問題ないけど、イタリア人からしたらこれは相当難しい。イタリア語では全部「勉強している、し続けてる」になっちゃうから。…こんな感じで哲学は深い。さっきこんなことを書いてみようかなって思い立って30分でバーっと書いただけだからまだ100あるうちの1くらいしか面白さを伝えれてない感じあるけど。今日はこのへんで。