なぜスペインのバルセロナ大学で哲学を専攻していながら今はイタリアのカラブリア大学で言語学・翻訳を学んでいるか。どの点でマルチリンガルは優れているか、得か、どんな感じか。
まず、イタリアで言語学を選考してる理由は自分の「言語哲学」を更に深いものにするため。バルセロナ大学では哲学部で2年丸々どっぷりと哲学ライフを送った。哲学と言っても種類はものすごくある。言語哲学、古代哲学、倫理哲学、宗教哲学、論理哲学、人類哲学、政治哲学、法哲学、現代哲学…など列挙すればキリがないほど広範囲にわたる。しかし、なかなか哲学に興味がある人じゃないと「あー (言語) 哲学って面白いかも」ってなる機会がない。ちょっとその深さをわかってもらうために、2フレーズを挙げる。
①「りんごをイメージしてみて」
②「青リンゴは好き?」①「りんごをイメージしてみて」
そう言われると、どんなりんごをイメージするだろうか。ある人は赤いりんご1つが脳裏に浮かび、ある人はもう切って食べる前のりんごをイメージして、またある人は木になってるりんごを思い浮かべるだろう。小さい子に聞いたら保育園で描いた自分のイラストをイメージするかもしれない。なぜ異なるイメージの中、私たちは誰かと会話ができ、理解しあえているのだろう?②「青リンゴは好き?」
何気ない質問だが、言語哲学的視点から分析すれば3つの注目すべきポイントがある
青 (色) 、リンゴ (もの) 、好き (感情)
これはちょっと難しいかな。興味がある人からすれば、たまらなく楽しんだけど。まずは、青という色の概念。これは色の共通概念は、存在するかどうか。私から見えてる「青」って友達のAくんとっての「赤」かもしれないけど、でも私たちは共通の呼び名 「青」で、呼んでるから話が通じてるだけかもしれないよね。ってこと。緑って色の概念についてAさんとBさんのが話してるとしよう。そして2人ともが『黄色と青の間の色だよね!』と納得したとする。すると言語哲学者は次のようにつっこむ。
『なぜ緑は黄色と青の間の色だと思う?』
『透明な緑色を想像するのは不可能かな?』
『目の見えない人に、その色をどうやって説明しようか?』
『色に論理的なルールってあるのかな?それとも心理的な存在なのかな?』
リンゴ (もの) の概念がいかに抽象的かというのは上に述べた。それに加えて、りんごという単語はりんごという意味をRINGOという音で表す。が、音と意味は直接的な関係はないのに私たちはそれを使ってコトバを作っている。という見解もある。だから人々は意味を表現するために音を覚えているということ… (まあ、これは言語哲学っていうより言語学の領域)。
閑話休題、
好きという感情について。その感情は本当に他の人とわかちえているものだろうか。「好き」という言葉は5歳の子でも平気に使うし、20歳の人でも50歳の人でもこんな深いことを考えることなく使う。でも分析してみれば、知覚と心理的概念 → 言語 (「好き」という共通のワード) である。
「青リンゴは好き?」
この質問はとても単純で、今まで友達と会話が普通に成り立ってきたかのように思えるが、実は 「XリンゴはY?」って聞いているのと、なんら変わりない。Xの色の概念も人によって違うだろうし、確かめようがない事実。Yの好きという感情だって、あなたの使う「好き」はいつ誰から習ったのか、どこに共通理解のルールブックがあるだろうか。という…。だから私の1番大好きな言語哲学者はこう言った、「言語ごとに何千、いや何万という言語ゲームが存在する」(Wittgenstein.L)
ある言語から別の言語に訳された哲学作品を読むのもいい。でも、これだけ深い言語哲学をその枠内 (ある翻訳者さんの理解している範囲での表現、言語) にとどめて満足するのはどうも気がすまなかったし、私が自分で密かに進めている自分の言語哲学をもっと掘り下げるためにはもう一言語、習得する必要があった。
言語は自分の世界の限界。
自分で言葉で表せるところまでが自分の世界。やっぱり、外に出ず自国で限られた少数の先生から習ったりテキストやCDから習う言語は私の中で「生きた言語」ではない。そこから文化、歴史、その言語が話されてる国の国民性を見出すのは不可能だと思うから。しかも今、この瞬間も文法が大きく変わってるとまではいかないが言語は変化してる。生きてるから。だからその地で学ぶのが1番いい。言語と国 (その言語を母語とする話者、文化、歴史、習慣) の間には密接な関係がある。イタリア語ならイタリア。日本語が学びたいなら日本。英語なら英語圏。しかし無論、個人の目的による。旅行で使えるレベルでいいのか友達作りレベルなのか、その言語で生きていくレベルか…。
私の場合、イタリア語は4,5年前から話せるようになりたかったし、イタリア人の友達の雰囲気が大好きだったから北イタリアに移住しようかな〜と、いつも思っていた。
マルチリンガルになっていいことは、喋る相手の母語で会話できる+自分が気に入った著者の作品や情報をオリジナルで読めるところ。翻訳されたものを数言語で何パターンも読むことも出来る。あと、空港やいろんな言語が飛び交う場所で「雑音」がなくなる。全部の音が「会話」として耳に入ってくる。みんなが日本語で話してるのかってくらいスッと理解できるようになる。
【実例】
先月日本に帰るためにアムステルダムで乗り換えをした時。飛行機の搭乗口に並んでいると自分の前の中年夫婦が「ちょっと、スクリーンみてよ、僕たちの便名と違うぞ」と困った様子で、英語で会話をし始めた。後ろのおばあちゃんは孫に「なんで2列あるんだろうねぇ、私たちファーストクラスのチケットだけどここにまだ並んでないとだめなのかねぇ足が痛いよ」とイタリア語でぼやいていた。両者とも不慣れで、不安そうだったからほっとけず、教えてあげた。無意識的にそれぞれの言語で。1,2分の間に前向いて英語、後ろ向いてイタリア語で誰か役に立てたの不思議だなと後々思って母に話したらスゴイ!と言われたが、私の中では語力より『5年目になると言語に自然と感情や情が入るようになったー!』という喜びの方が大きい。
日本語にはたくさんの「他の言語には翻訳不可能な表現」「他の言語では1語で表せない言葉」があると言われる。これはスペイン語にもイタリア語にもカタルーニャ語にも英語にもある。この5年でハッキリとわかった。それらは実際に、その言語が話されている土地に行って、自分の五感をフルに使わないと理解するのが難しい。スペイン語の動詞にtutear (トゥテアール) というのがある。日本語にしたら『usted (あなた / 敬語じゃなくて tú (君 / タメ語・同レベルで話すこと』かな。…ちょっと違う。相手に敬意を持ってないわけでも、同レベルもしくは見下してるわけでもない。親しみを抱いてる距離の近さを感じる。
スペイン語の pues という単語をイタリア人はすぐに理解できないし。スペイン語には人や動物を描写する可愛いとか綺麗とか美しいとか愛おしいとか様々な形容詞があるのにイタリア語には2単語しかない。bell@とcarin@。逆にイタリア語の pure は本当にいろんな場面で使う。あ、あと継続を表すスペイン語の
llevo estudiando
continuo estudiando
he estado estudiando
estoy estudiando
sigo estudiando
は、日本語に全て翻訳できる=日本人からしたら理解に全く問題がないけど、イタリア人からしたら、相当難しい。なぜならイタリア語では全部「勉強している、し続けてる」になってしまうから。…言語は深い。30分でバーっと書いただけだからまだ100あるうちの1しか面白さを伝えれてない気がするけど。今日はこのへんで。
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