誕生日、クリスマス、記念日。
誰しも一度は大切な人に『プレゼント』を贈ったことがあるだろう。もちろんこれから先だって何度も『贈り合い』を経験していくだろう。
贈る相手は、
・両親
・祖父母
・兄弟
・恋人
・友達
・妻や夫
・子供
・孫
ポピュラーな品物は、
・花束
・アクセサリー
・前から欲しがっていた物
・ゲーム
・食べ物
・旅行
・衣服
・香水
・本
・コンサートのチケット
街でプレゼントを選んでいる人にインタビューをすると、ほぼ全員が上記のいずれかの「相手」と「物」を挙げる。
そこで、答えてくれた人たちに、
「もし今、宝くじが当たったらその人に何を買ってあげたいですか?」
と、聞いてみる。
すると...
予算が増え、選択肢が広がり、どの人もお金の価値がより高いものを口々に挙げ始めた。
『世界旅行に連れて行ってあげたい』
『家をプレゼントします』
『宝石を贈る』
『高級なスーツを作ってあげたい』
『毎日豪華な食事を一緒に食べに行く』
『ハワイで結婚式を挙げたい』
『高級なお寿司屋さんで好きなだけ食べる』
『高級ホテル連泊が良いかな』
答えはバラバラだ。
では、これに、あるひとつの条件を加えるとどうなるか?
…
…
「もし今年が一緒に過ごせる最後のクリスマスだとしても、同じ物を贈りますか?」
…
…
一瞬、時が止まる。
なかなか即答出来る人はいない。
考える。
涙を浮かべる人だっている。
5秒。
10秒。
15秒。
それから出る答えは、
全員同じ。
『NO.』
『全ての愛を捧げます。』
毎日隣にいる。少しでも長く、そばにいたい。近くで。特別じゃなくたって良い、ただ一緒にいられたらそれで良い。
➡︎ お金では買えない「時間」と「愛」を相手にプレゼントするという結果になった。
なぜ?
【時間】
私たちが生きているこの「時間」には2種類ある。
① 買える時間
② 買えない時間
前者の例えは、公共交通機関。「鈍行で行くと安いが、到着に時間がかかる。だから私は新幹線を使う。」この人は、時間をお金で買っている。
後者の例は、余命。最近は、医療の発達のおかげである程度の「命の時間」を買えるようになっている。しかし、限界がある。100億円払っても、救えない命がある。
「全財産を失っても良い」
いくら泣いても、買えない1秒がある。
「最後の1日」
目の前の大切な人が100%、
明日、自分の前からいなくなる。
その時、見えてくるのは、
人間の愛に対する絶対的な価値
・10年越しで挑む大事な試験
・億万長者も夢じゃない大事なプレゼン
・子供の頃から夢だったスタジアムでの試合
・どうしても外せない仕事
・何日も前から楽しみにしていた約束
・1000万円の宝くじの換金締切日
・大好きな歌手と会って話せる夢のような機会
大切な人の「最後の1日」と被っていたら?
そんなの大したことじゃない。
誰も自分の「夢」を選ばない。
何よりも、その人との「時間」が欲しい。1秒でも良いから、長く。一緒に時を刻みたい。
【アイデアの想起】
イタリアの fanpage.it というメディアは、これまでに何本も考えさせられる素敵なビデオを制作している。先日、たまたま目にした「最高のクリスマスプレゼント」というタイトルがついた下のビデオは、私が挙げた『最後のクリスマスに何を贈るか』をメインのテーマとしているもの。
【終わりに】
この記事を書きながら3つのことを思った。
1. 日頃からお金じゃ買えない何かで、大切な人には感謝や気持ちを伝えよう ➡︎ 1本の電話、1通のメッセージ、1言のお礼。離れていても繋がれる時代。
2. 自分も誰かにとってそういう存在である ➡︎ 毎日元気に、意義のある時間を過ごそう。
3. 会える時間を大切にしよう ➡︎ 大きな規模の話をすると、宇宙が出来て138億年。地球が生まれて46億年。その中で私たちは長くて100年。平均的には83年、生きる。83年なんて。宇宙の中で、ほぼ存在しないほど僅かな時間。それくらい「生」はレアで、特殊なこと。
【携帯電話】
私は日本を出た2014年3月24日から、イタリアの大学を始めた2017年11月3日まで、携帯電話を持っていなかった。
当時も今と同じくらい、携帯はみんなの生活の一部。必需品だった。
だから番号を聞かれ、持っていないと言うと、決まって「ありえない!どうやって生きてるの!」と驚かれた。半信半疑で信じてもらえなかった。
(2017年11月に再購入したのは、イタリアの大学があるカラブリア州が田舎過ぎたから。Wi-Fiは、唯一大学にあるだけで、家にもない。)
高校3年間は肌身離さず持っていた。
友達と1日に30通以上のメール楽しんでいた。件名に数え切れない RE:RE:RE:RE がついていたのが懐かしい。電話もアメブロもツイッターもたくさんした。
でも、バルセロナでは携帯を買わなかった。ノートパソコン1台のみで良い、と心から思った。
その理由は2つ。
① 本気でスペイン語を学びたい。➡︎ 身につくまでは日本語をシャットアウトする。それくらい確固とした強い意志を持っていたから。
② もう後悔をしたくなかったから。➡︎ 高校生活を振り返れば、家族との時間が全くと言って良いほど取れなかった。私が常に外にいたから。平日は毎日始発で家を出て、帰宅は夜。土日や休暇は全て試合と遠征。家族とゆっくりと過ごせたのは、テニスと勉強三昧の3年間を終えた後。卒業式の翌日からビザ発給を待つまでの「数週間」のみ。バルセロナに渡って来て、最初の数ヶ月はカタルーニャ人のおばあちゃんが1人で住む家にホームステイをしていたのだが、1週間目に、早すぎるホームシックがやってきた。14歳の頃、カナダのプリンスエドワード島に初めて短期留学をした時以来の何とも言えない『孤独感』。しかも今回は、終わりが未定の留学。...私は人生最大レベルの後悔をした。「もっと家族と会話をしておけば良かった」と。家にいる時も携帯をずっと触っていた自分がありえなかった。
それから「今」を生きることに決めた。
今、目の前にいる人と。
慣れるまでに2ヶ月ほどかかったが、次第に携帯なし生活が快適で自由だと気づき、それを好むようになった。
携帯電話。
近くにいる人と遠くなって、
遠くにいる人と近くなる。
不思議な箱。
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