BARCELONANDO :)

1995年香川生まれ岡山育ち。現在ヨーロッパ生活7年目。スペインとイタリアの大学生活・旅行・言語学 (5ヶ国語)・哲学・バルセロナおすすめ情報など、幅広いジャンルの記事を執筆中。2019年6月より、バルセロナにある大学入試専門のアカデミアGUIUのアンバサダーに就任。スペインへの留学・大学進学に興味がある方は、お気軽にご相談ください 😊🇪🇸 barcelonandoo@gmail.com

【ガウディは2代目】初代設計者のサグラダファミリアは今と全然違った

サグラダファミアの設計者は、アントニ・ガウディ (Antoni Gaudí)。しかし、彼が「2代目」であることをご存知だろうか?

・サグラダファミリアの設計を最初に任されていたのは フランシスコ・ビリャール (Francisco Villar) という建築家。

・あまりにも意見の対立が多く、フランシスコは着工の翌年 (1883年) に辞任した。

・2代目に就任したのは無名のガウディ。

初代建築家が描いていたサグラダファミリアの完成図はどんな感じだったの?着工の翌年に辞任するほどの「意見の対立」って何があったの?

今日は、知られざる背景をベースに、この2つの疑問を晴らして行く。

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【発案と背景】
「サグラダファミリア (聖家族) 寺院を作ろう!」というアイデアが生まれた1880年というのは、とにかくバルセロナが社会的にも経済的にも文化的にも発展を遂げていた、活気溢れる時代であった。だが、その一方で「宗教 (キリスト教)」がヨーロッパで複雑になってきている頃でもあった。

キリスト教の衰退を見兼ねたバルセロナの慈善家のボカベーリャ (Josep Maria Bocabella) は、民間カトリック団体に『サグラダファミリア』の案を持ちかけた。「新しい寺院を建設し、市民の崇高な精神を取り戻しましょう」と。

「民間のサンホセ教会 (Asociación de Devotos de San José) の信徒からの寄付によって出来上がる新しい寺院は、市民に平和を伝えるため、しっかりとした構造を持つ建築物であるべきだと思うのです。」

初代建築家として無償で設計を引き受けたのは フランシスコ・ビリャール。フルネームは、Francisco de Paula del Villar y Lozano (フランシスコ・デ・パウラ・デル・ビリャール・イー・ロサーノ)。

【こう出来上がる予定だった】
ビリャールの設計したサグラダファミリアは ⬇︎

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私たちが知っているサグラダファミリアとかなり違う。ごく普通の...。ど素人の私からすれば「ヨーロッパによくありそうな寺院」に見える。

 

実はこれ、イタリアのロレートという町にあるカトリック教会 (Santuario de Loreto) の完全な複製だった。ロレートのこの教会の、イタリア語名は「サントゥアリオ・デッラ・サンタ・カーザ (Santuario/Basilica della Santa Casa)」。全世界から信者が集まるほど有名な巡礼地である。

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建築スタイルは、当時の流行り『ネオゴシック』だ。

ビリャールの新寺院計画は、中世の有名なカテドラル (大聖堂) から大きな影響を受けている。

ラテン十字、3つの身廊、開放的な空間が広がる地下聖堂、7つの礼拝堂とアプス、そして、柱廊の上には高さが85mの尖塔。

この時代のヨーロッパの教会の多くは、このスタイルで建てられている。

+α: 身廊 (nave) とは、ゴシックスタイルの教会の中に入ってすぐ目の前に広がる長い通路のこと。アプスは、奥の壁面の穴のような….。

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 ここのこと ⬇︎ 半円形だったり多角形だったりする。

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【意見の対立って?】
ビリャールが辞任を決めるほどの「意見の対立」。私はてっきり宗教的な不一致、もしくは市と住民の対立だと思っていた。

が、実際は仲間内の揉め事だった。

建設がスタートし、1つ目の石が設置されたのは1882年3月19日、祝日「聖ヨセフの日」。(聖ヨセフは、マリア様の夫。イエスを育てた父らしい。)

習慣的に、他の教会と同じく、地下聖堂 (床下の石造りの部屋) から作られることになったのだが...

その翌年、1883年。

作業を進めていく中で、建築家ビリャールと、発案者であるボカベーリャと、ボカベーリャの顧問を務めていたデザイナーのジョアン・マルトレルの間に『矛盾』が生まれ始めた。

ビリャールは、地下聖堂の橋脚 (土台となる柱) に100%『石』を使用し、それを水平に積み上げていきたかった。しかし、発案者とマルトレルは「それではかなり高くつき、予算を大きくオーバーしてしまいます。」と、真っ向から反対。

この意見の食い違いは、ビリャールが辞任する日まで続いたという。

ボカベーリャは、マルトレルに「お前がビリャールの代わりに設計をやったらどうだね?」と話を持ちかけるも、マルトレルは、自分のプロとしての繊細さ不足と高齢を理由に断った。

そこで、マルトレルが声をかけたのが、数いる弟子の中でも最も優れた才能を感じていたアントニ・ガウディである。

【年齢の整理】
サグラダファミリア: 1882-2026 (予定)
初代建築家のビリャール: 1828-1901
発案者のボカベーリャ: 1815-1892
顧問のマルトレル: 1833-1906
2代目候補のガウディ: 1852-1926

1883年の喧嘩の時点で、

ビリャールは55歳。ボカベーリャは68歳。マルトレルは50歳。ガウディは31歳。

サグラダファミリアの2代目建築家として指名されたのは、1883年11月3日のこと。既に一部の建築は進んでいた: 地下の部屋の基礎は完成し、柱の高さはもう半分になっていた。

まだ若いガウディは、5年の経験しか有していなかったが、とにかく自信とやる気に満ち溢れていた。『命ある限りプロとしてサグラダファミリアの建築を』と、大きな挑戦を引き受けた。

しかし、代替わりしてすぐ、

ガウディは嘆く…。

「この設計 (配置) では、角度がダメだ。太陽の向きを計算にいれていない。これじゃあ、エルサレムの方向へ向かないぞ。」

十字架の頭の部分 (アプス) が、日の出の方向、反対側となる入り口 (十字架の足元部分) が日没の方向…。

もう地下聖堂が完成しきってしまっているため、今更やり直しなど出来ない。このままビリャールの設計にある「方角」で行くしかない…。

【おまけ】
悩みに悩んだ末、天才建築家のガウディは、ビリャールの計画とは全く違う、新しい「計画」を作り上げた。わずか数週間で。

空間の上手な使い方、精密な計算、センス、新しいアイデア、ガウディらしさ

その新しい計画というのは、形や構造の変更だけではなかった。高さ、作品の意義、自然と建築の在り方まで。

サグラダファミリアを『石で出来た大きな聖書』のようにしたかった。歴史や、キリスト教の信仰におけるミステリーなど、全てを含んだあの偉大な聖書のように。

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(今日の姿からも分かる通り、ガウディの頭の中、そして彼の手がける作品はもう、次元が違う。魅了される。)

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幾何学的かつ比例的な基準で新しいプロジェクトを考案し、彼は見事、サグラダファミリアを『地と天を結ぶもの』に変えた。

(172.5mの高さの、1番上にくるイエスのシンボルをデザインしたのは、ガウディ!)

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なぜ、172.5m?その理由は ⬇︎

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