バルセロナのメイン通りと言える Avinguda del Portal de l'Àngel (天使の扉通り) は、カタルーニャ広場からカテドラル (大聖堂) を繋ぐ。上の正式名称はカタルーニャ語だが、スペイン語では Av. Puerta del Ángel (プエルタ・デル・アンヘル) と言う。 なぜ「天使の扉通り」と名前がついたのか、なぜ数ヶ所に天使の彫刻があるのか、今日はその謎を歴史と伝説から徹底解剖していく。
バルセロナはローマ時代に建設されたローマ植民市であり、当時は Barcino (バルチーノ) と呼ばれていた。外からの敵の侵略を防ぐためその街は市壁に覆われていた。城壁内には人口が2000人しかいなかった。そのバルキーノたちはローマ帝国の植民者であった。街の支配者を守るために、と長年に渡って市壁の外にはさらに大きな、丈夫な、防御壁が作られていった。
ローマ時代の市壁は1世紀〜4世紀にかけて作られ、muralla de Jaime I (ハイメ プリメーロの壁) と呼ばれた。12世紀は3つ目の壁が、そして中世にもまた別の壁ができ…増壁は14世紀まで続いた。2つ目にできた市壁は長さが5096m、新しくできた見張り塔 (81の塔は1つが18mだった) や農業のための土地を市壁の内側に入れる目的だったとか。この時代、人口が増え、土地がとても狭くなっていたためスペースを効率的に使う必要があった。muralla de Jaime I (ハイメ プリメーロの壁) が出来た時、バルセロナの街に入るための扉は4つあった。そのうちの1つがプエルタデルアンヘル通りにあった。(厳密な位置は、現在のプエルタデルアンヘル通り〜カタルーニャ広場へいく間の横断歩道のあたり。)
もともとAvinguda del Portal de l'Àngel (天使の扉通り) には違う名前がつけられていた。15世紀、現在アラゴン通り (calle Aragón) がある場所 (パッセージデグラシアとクラリス通りの間) にイエスキリスト修道院 (Convento de Jesús) と言うとても大きな修道院があった。修道院の近くには貧しい人々や乞食たちが住む地区が出来て、その道は「盲者通り」や「イエスキリスト通り」と呼ばれていた。それはとても長くて幅が狭い道であった。今でもパッセージデグラシアを登っていると右手にその道はある。その道に Violante (ビオランテ) 王妃の宮殿が建てられた。ビオランテ王妃はアルフォンソ5世 (Alfonso V) の妻 (彼女がカタルーニャとアラゴン州の中尉を務めた時、夫はイタリア戦争で亡くなってしまった)。住民たちは毎日バルセロナまで下ってお金をせがんでいた。その際に、出入りしていた扉は Portal dels Orbs (盲目の人たちの扉) と呼ばれた。ポルタルデルアンヘル通りにあった扉が唯一、バルセロナと、villa de Gracia (グラシアの村) を繋ぐ交通路だったのだ。長いバルセロナの歴史上、これが1番最初に作られた扉であったし、1番最後まで残っていた扉であった。夜が明ける前の午前3時からすごい数の馬車が行き来していて、農民の馬車には多くの商品が積まれていた。農民は1度、積み荷を下ろしたら、バルセロナ市民の (下水道のない) 便所をからにするというサービスしていたよう。(この時代、市民と農民はお互いにとても助け合っていた。)
「盲目の人の通り」から Avinguda del Portal de l'Àngel (天使の扉通り) と呼ばれるようになるきっかけは1398年に起こる ↓
1390年代後半、バルセロナの街は大きな疫病 (ペスト) に襲われていて、市民たちはどうすればこの病気の流行を食い止められるのかも、適当な策もわからず、困っていた。
1398年、ビセンテ・フェレール (中世の聖職者、演説で民衆を引きつけ奇跡を起こす人としてヨーロッパ各地の人たちから尊敬された) がバレス地方の説教からバルセロナに帰ってきた。そしてバルセロナの街に入ろうとこの入り口の前に立った。その時、彼は自分の上にいる天使に気づいた。その天使は片手に剣、もう片手に王冠を持っていた。まるで街に入る人々を見守っているかのように。(ビセンテが1409年にバルセロナを訪問した時にはロバに乗っていた彼の後ろを3000人もの人が歩いてついてきてた。それほど人々から尊敬される人だった。)
そして彼は、「そこで何をしているのだね?」と天使に尋ねた。すると、天使は『目上の人 (神様) のご命令でこの街を守っているのです』と答えた。このやりとりを見ていた市民たちは、やはり彼は聖なる人だ!と彼をさらに尊敬の眼差しで見るようになった。この天使との会話の直後からペストの流行はおさまり、数日経つともう病気はなくなったらしい。困り果てている市民たちに助けの手を差し伸べるべく、神は天使にバルセロナを守るようにと、使命を与えたそう。
1462年あたりまではまだ Portal dels Orbs (盲目の人たちの扉) と呼ばれていた文書が残っている。チャペル (教会の所有ではない礼拝堂) が建てられた 1466年11月17日から Avinguda del Portal de l'Àngel (天使の扉通り) と名前が変わった。…という伝説。
街が大きく変わったのは1854年の市壁の崩壊。それ以来、街を覆っていた高い壁も扉もなくなってしまった。それからさらに時は流れ、スペイン市民戦争が起こる頃。ある彫刻家がバルセロナに移住してきて、この街をとても気にいっていた。彼の名前は Ángel Ferrant Vázquez (アンヘル フェラント バスケス)、マドリッド出身の彫刻家。アンヘルは自分を温かく迎え入れ、魅了してくれたこの街に何か贈り物がしたいと考えた。そして1955年、カタルーニャ広場からこの通りに入る部分 (Banco de España: スペイン銀行 がある場所) の建物の壁に天使の彫刻を置いた ↓
カテドラルがある方にこの道を下って行くと ↓ こんな噴水がある。その上にも天使の銅像が!
実はこのサンタアナ噴水 (Font de Santa Anna) はバルセロナで1番古い。1356年に作られたが、市民のためのものではなく、付近にあるホテルに寝泊まりする旅行者の馬車の馬のために使用された。この660年の間には数え切れない出来事が起こった、30人もの死者を出した大きな大地震、ユダヤ人の追放、カトリック君主がペストの大流行で何千人もの人に水を提供、サグラダファミリアの建築の開始、世界万博、オリンピック…。バルセロナをずっと見守ってきた噴水とも言える。五角形に見えるが、元々は八角形だった。
バルセロナのゴシック地区の道は一本一本にたくさんの歴史と魅力が詰まってて、すごく楽しい。今もいい状態で市壁や遺跡、お墓、が残ってて、当時にタイムスリップしたかのような感覚になる。
初めて住んだ道、いつも窓から見てた風景の中にこんな歴史があるとは。
散歩が一層楽しくなる。
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