BARCELONANDO :)

1995年生まれ。ヨーロッパ生活5年目。バルセロナ・イタリア・ヨーロッパ・言語学・哲学に関する記事。

【Petritxol (ペトリチョル) 通り!タイルのモザイク画の意味】バルセロナ

私が初めて1人暮らしをしたピソは、Petritxol 4番地の3階だった。この道の名前は日本で売ってるバルセロナのガイドブックに絶対載ってると思う。でも「チュロスの老舗が〜」とか書いてある程度で、ステキな歴史については触れていないだろう。そこで今日はペトリチョル通りの歴史、名前の由来 (伝説)、そしてタイルの意味についてまとめる。

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<名前の由来> その歴史は遡ること1200年前。まだバルセロナがムスリムの支配下にあった800年頃。サセラン人 (中世ヨーロッパ世界のイスラム教徒) はたった1つの教会をキリスト教徒のために開いた、それが la iglesia del Pi (ピ教会) だった。(ピ教会はペトリチョル通りの真横にある。) バルセロナに残っていた唯一の聖職者は年老いた司祭であった。彼は、朝5時にだけミサをすることを許された。1日が始まる前に…。それに参加したかったキリスト教徒のほとんどはラバル地区に住んでいた。が、アミール (イスラム世界の司令官の称号) は「教会までの最短の道は良いイスラム教徒のためにある。異教徒がその道を通ることを許さない。」としていたため、キリスト教徒は遠回りをして教会まで行かなければならなかった。伝説によると、ある日、年老いた聖職者がミサを終えてコップを洗うために井戸へ向かった時、ある出来事が起こる。突然バケツが井戸の中へ落ちてしまったのだ。

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フックを使って下まで降りると、なんとそこは金貨でいっぱいだった。そして彼はこう思った「この宝はキリスト教徒のものだ。イスラム教徒の侵攻から逃げる時間がなくて井戸の中に急いで隠したに違いない。」それからこう考えた「教区 (信徒たちが日曜のミサに出席できる範囲) の第一の必要性何と言っても多くの信者が忠実心を持ち、きちんとミサに参加することではないのか。」この頃、ラバルから遠回りをしてピ教会へ行かなければならなかったキリスト教徒はその迂回路が理由で、ほとんどが教会へ足を運ぶのをやめていた。彼は少し考えた。「よし、アミールに会いに行き、どうにかしてみせよう。」

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「わしは年老いた者じゃ。自分たちの教会に行くってのにわざわざ大回りをせねばならぬからもう足が疲れ切って動かないんじゃが。」アミールはこう答えた『おじいさんよ、宗教行為を行う際、2つの教団が祈りを捧げに行くため、同じ道を通るのを許すことはできないんだ、それはもう理解してくださっているだろう』年老いた者は次のように主張した「小耳に挟んだのだがね、あなたがたの国庫はお金が足りなくなってるそうじゃないか、城壁から私の教会まで続くあの道をこの私に売るってのはどうだい?」アミールは少し考えこんだ『それは…!それは結構な金額になるぞ。君たちのようなかわいそうな貧弱な団体が集めれるお金ではないのだよ。』「おいくらか教えてください。それから私たちはどうにかします。」『ならばよかろう。そこまで言うのであれば教えてやろう。その額はとてもじゃないけど君たちには手に負えないほど高額だ。しかしだな、そこまでしてでもあの道が欲しいのであれば、通りの地面を金貨で覆うのだ。Portaferrissa (ポルタフェッリッサ) 通りからピ教会までだ。』何日か経ち、老人は金貨を発見した井戸にもう一度行き、中を確認した。するとそこには前回より多くの金貨が眠っていた。

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そしてもう一度アミールのところへ行き、こう言った「あなたが必要とするお金を手に入れました。今すぐにでもあの道の地面を金貨で埋めつくすことができます。」ピ教会にあった井戸から彼は金貨を取り出し、地面に広げ始めた。しかし、Portaferrissa 通りにさしかかった時、金貨が足りなくなってしまった。あと数メートルだったのに。それを見ていたアミールは、大量の金貨を目の当たりにし、この稼げるチャンスを逃しまいと思った。そしてこう言う『心配するな。Portaferrissa 通りにたどり着くために十分な金貨がないとしても、その金貨が足りているところまでを君たちの領土としてやる。よし、ここに新しい城壁の扉を作ってやる。これでキリスト教徒たちもムスリム教徒と顔を合わすことなく自由にピ教会まで行き来できるぞ。』アミールはそう言うと道を埋め尽くしていた大量の金貨をかき集め、ポルタフェリッサ通りの近くの城壁の扉 (Portillo: ポルティージョ) を開けるように子分に命じた。その時からその道Petrixol (ペトリチョル) Pertixol (ペルティチョル) と呼ばれるようになった。

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 <タイルの意味> ペトリチョル通りの壁にはいくつものタイルで出来た絵がある。どれも味があってとても可愛い。1枚1枚見て行くだけでも楽しい。何て書いてあるのか気になった人も多いだろう。このタイル (絵) には街の社会生活が描かれていて、市民へのアドバイスも書かれている。

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↑ これをスペイン語に訳すと "ADMIRA DE SOL A SOL LA CALLE DE PETRITXOL". これは植物や動物を大切に、尊重するように。という意味を込めて書かれたもの。

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<ペトリチョル通りと偉人たち> 詩人でもあり、劇作家でもあった Àngel Guimerà (1847-1924) は1924年に亡くなるまでこの道の4番地に住んでいた。教師でもありダンサーでもあった Joan Magriñà Sanromà (1903-1995) は 1936年、1番地にスタジオを設けた。Montserrat Caballé は1950年に、この道にあった Comella 氏が経営するハンカチの工場で勤めていた。そして著者であり弁護士でもある Maurici Serrahima (1902-1979) は 3番地で生まれ幼少期を過ごした。

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↑ この絵もこの道で人々がどのような生活を送っていたかを描いたもので、"MENJAR (食べる) NATA (クリーム) ENSAIMADA (エンサイマダ) I XACOLATA (チョコレート)" とある。エンサイマダはカタルーニャの伝統的なお菓子で、上に粉砂糖がふってある甘いパン。これは当時、赤ちゃんが生まれて洗礼をした日や結婚式などお祝いごとがある時に市民が食べていたもの。スペイン語にすると、"Iban a comer nata, ensaimada y chocolate"。

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長さ130m、幅3mのこの道にはこのように当時の市民の習慣がモザイク画として今も残っている。実はこのペトリチョル通りは、バルセロナで初めて「歩行者用」に改装された道だ。(1959年)

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↑ スペイン語にすると "Y la gorra ya no está que llevaba el señor Parés" 「ペレス氏はもう帽子を被ってなかった」と書いてある。カタルーニャ語では韻をちゃんと踏んでいる。

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5番地には SALA PARÉS (サラ パレス) という美術作品の画廊がある。ここは超有名なあの Pablo Picasso (パブロ ピカソ) が初めて1840年に個展を開いた場所。

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↑ これは ESTEVE さんという婦人をメインに、この時代の社会の価値観を描いているモデルニスモの作品の1つ。その中心となっているテーマは「アーティスト (画家) と社会」である。当時、画家は自分が描いた作品の全責任を負わなければならず、時としてそれは苦しく社会の中で生きにくいものであった…。

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 ↑ スペイン語 "Por el balcón ves temblar la sombra de Àngel Guimerà"「バルコニーから怯えるアンヘル ギメラ の影が見えるぞ」 このアンヘル ギメラ は上にも紹介した 19世紀の詩人、劇作家で4番地に住んでた有名な人。

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バルセロナの歴史を感じながらゆっくりペトリチョル通りを散歩するのもいい。

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